キャラゲーとゲーキャラ

 今回はゲームの話。「キャラゲー」という言葉を考えてみたいと思います。キャラゲーという言葉には「版権ものゲーム」と「キャラクター性を商品化したゲーム」というふたつの意味がありますが、ここでは後者を取り上げます。

 いきなりですが、キャラゲーという呼称はあまり良い意味では使われていないイメージが強いかと思われます。キャラクターのアイドル・ヒーロー的魅力に商品価値を発生させている反面、「ゲームの本質」だとか「ゲームらしさ」をないがしろにしたゲームもどき・・・・・・そんな意味合いで使われることも多いのではないでしょうか。例えば「東方ってキャラゲーだろ」といった台詞は一定の効果を持つ煽りとして機能しますよね? 残念ながらキャラゲーという言葉にはそういった呪縛があります。その原因は「ゲームの面白さ」と「ゲームの商品価値」が混同されていることにあると言えるでしょう。ゲームの面白さとはその商品価値の中に内包されている幾つかの価値基準のひとつでしかありません(勿論、それは特に太く高い柱ですが)。「キャラクターが魅力的」なのがキャラゲーなのであって「クソゲーだけどキャラクターは魅力的」なだけがキャラゲーではありません。「良ゲーでキャラクターも魅力的」なキャラゲーも普通に成立するのです。
 さて。でもここで疑問が湧いてくるかもしれません。「じゃあキャラゲーと呼ばれるゲームと呼ばれないゲームが出てくるのはなんで?」と。例えば、和製RPG等はキャラクター人気の高い作品でもキャラゲーと呼ばれることは少ない気がしますね。和製RPGは「ムービーゲー」の方が煽りワードとして便利なのもありますがそれだけでは理由としてはやや不足です。正解は、キャラゲーと呼ばれるゲームとは単にキャラクターを売りにしているだけでなく、物語性の希薄さに反比例してキャラクター性が強調されているゲームだから。です。例えば多彩な躍動をキャラクターに与える対戦格闘ゲームは、恐らく最もキャラゲーに適したジャンルです。勝負前後にちょっとした会話デモがあればマシな方で、多くの格闘ゲームは「重厚な物語を目指す姿勢」とは無縁です(ジャンル的に多くの開発者とプレイヤーが不要と判断したであろう結果であり、別に批判してるわけではありません)。その一方、「気合を入れてガチの対戦をしたりはしないけどキャラは好き」というファンを多く生み出してきた・・・・・・と言えば結構納得していただけるのではないかと思います。また、「キャラゲーとしての格ゲー」では選択するという行為も重要です。イケメン、ロリ、オッサン等からプレイヤーが好きなキャラを選んでボタンを押す時、そこには「多様な類型からユーザーが好みのものを選ぶ行為」がパッケージングされています。格ゲーの商品価値は対戦ツールだけでなくキャラクターカタログという面にもあるわけですね。これは主人公が固定されたタイプのRPGやノベルゲーム等には見られない特徴です。
 物語性の追求よりも、ユーザーに自分好みのキャラクターを選択する行為を求めるゲーム。ここではキャラゲーをそう定義しました。これは格闘ゲームの特権ではありません。例えばSRPGをプレイする際、強いユニットよりも好きなユニットを優先して使うというプレイスタイルはキャラゲー的な楽しみ方であると言えます。SRPGは物語性が濃厚なんじゃないの? と思われるかもしれません。では、シナリオフェイズでは影の薄いサブキャラが、戦闘フェイズではプレイヤーに贔屓されトップエースに君臨するという状況はどうでしょうか? 物語よりもキャラが優位に立っているように見えませんか? 登場するユニット(キャラ)数が多く、全てのユニットを戦闘には出せないタイプのSRPGなら珍しいことではないと思います。そこにはプレイヤーの取捨選択があり、ユーザーは「ゲーム」だけでなく「キャラ」にもプレイ価値を見出しているのではないでしょうか。

 格闘ゲームSRPG、あるいはその他のジャンルで、ゲームキャラクターがゲーム(の遊戯性)から独立した商品価値を持つ。テトリスマーブルマッドネスのようにキャラクター性を排除した作品でもない限り、それは常にゲームと共にある「財」です(思わず買いたくなるような関連商品が生まれるかどうかは別にして)。キャラゲーという言葉が持つ意味に、もっと自覚的かつ前向きになりたいですね。

プチカミ

 このブログの名前の元ネタは東浩紀の『動物化するポストモダン』という本です。本の内容はオタク論ですね(著者は非オタク向けに書いたっぽいですが)。ようするに私はオタクです。アニメは殆ど見ないし、本場のコミックマーケットに行ったこともありませんが。とにかくそんなわけで、ブログでも主にオタク関連の題材を取り扱っていきたいと思っています。

 さて、今回は宗教とカミサマの話にしましょう。神様といっても「GOD」とか「大いなる主」ではなく、もう少し身近で小さな神様・・・・・・名付けて「プチ神様」です。
 人間とその共同体は、「こみゅにけーしょん」なるもので結ばれますが、それらを媒介するにはなんらかの物品や事象が必要となります。つまり共通の話題ですね。で、宗教もそのひとつに過ぎないわけです。神様という共通の話題を介して、人間同士が繋がり団結する。それが宗教の機能であり意義でした。現代、古い神様はニーチェ先生にぶち殺されたので、今の我々は神と呼ばれる超越意思の実在を信じません。現代人が信じるのは神ではなく神の残した思想です。神様は信じなくても「汝、殺すなかれ盗むなかれ」という思想は信じ守るわけですよ。そうして大いなる神を信じなくなった我々は、他の共通の話題を個々人が各自の好みに合わせて選択し、プチ神様として宗教と神の代用とするようになりました。例えば野球が好きな人が集まれば、野球は共通の話題という名の宗教となるのです。スタジアムで試合を応援する人々は、大掛かりな儀式に参加している状態であり、選手達は神々(あるいはその偶像)の役割を担います。ホームランを決めるイチロー選手や、ステージ上でファン(信徒)の歓声を集める水樹奈々は現人神タイプのプチ神様なんですね。実は。
 これらの神様にプチがつくかつかないかの線引きは、神様の為に人殺しができるかどうかがひとつの判断基準になると思います(自殺含む)。。昔、オリンピックだかワールドカップだかでどっかの国のサッカー選手が自殺点してしまい、彼は帰国直後に頭のおかしいサッカーファンに射殺されました。このように物騒なものはもはやプチ神様ではなく、その昔、宗教戦争で異教徒を殺戮したのと同じ、ガチの「神」がそこにあります(賭博の利権がらみ説もありますが、その場合は「金」が「神」です)。この理屈で言えば、バモイドオキも立派な神様になってしまいますかね。まあいいや。あるいはそこまでいかなくても「神」の「敵」に殺意を抱けるかで分けてもいいかもしれません

 で、オタクの場合、プチ神様の位置はその時ごとに人気のあるアニメやらゲームやら・・・・・・のキャラクターが担います。俺の嫁イコールプチ神様です。俺の「嫁」と言いますが、もちろん美少女である必要はありません。男の娘でもクリーチャーでもスーパーロボットでもなんでもOKです。萌え絵はイコンであり、フィギュアや超合金はプチ神様をかたどった神像なのです。

 プチ神様のいいところは、ガチ神様と違って盲信する必要がないところでしょうか。小型化されただけあって実用的になっていますね。

にア <ブログをはじめる>

またブログを始めることにしました。
以前やっていたブログは管理画面で「最後に記事書いたの、もう10日も前だよ?」とか「今日もアクセセスゼロだよ!」とか言われるのが苦痛で衝動的に消しちゃったんですが、またその苦痛を味わおうと思います。ダラダラとやっていきます。血をダラダラ流す感じですね。